エホバの証人をやめたあと、
それでもキリストへの信仰を維持する人や聖書への理解をやり直したい人がかならず直面するであろう問題が、
「どの聖書を読めば良いのか」である。
ご存知のとおり、
ものみの塔の発行する新世界訳聖書は聖書として一般には認められておらず、
自分たちの教義に都合よく改ざんされているとされるからだ。
そこで、
日本語の標準的な聖書としては何を用いれば良いか、どのように調べるのが効果的か、またその問題点について、
聖書を信じない(というか、どうでも良い)立場から客観的に考察してみたい。
説得力がないって?いやいや真面目に書きますよ。
一般的な日本語版聖書とは
まず、どの聖書が良いかについては少し調べてみれば一目瞭然、
「新共同訳」と「新改訳」のどちらかがオススメされている。
「新共同訳」
…日本聖書協会発行。
カトリックとプロテスタントが”共同”で翻訳した聖書。
長らく不仲だったカトリックとプロテスタントだが、
現代になってキリスト教の教派を超えた結束を目指す運動(エキュメニズム)が起こり、
世界各国でカトリック教会とプロテスタント諸派による共同翻訳作業が行われた。
日本でもこれに乗って1978年に新約聖書のみの「共同訳」が、
さらにこれを改善し、旧約と新約を合わせた「新共同訳」が1987年に刊行された。
「新改訳」
…日本聖書刊行会発行、いのちのことば社発売。
聖書を神の言葉として信じる福音主義に立つ42名の翻訳者による翻訳。
新共同訳との違いとしては、
特定の神学的立場に傾かず、言語的に妥当であるかを尊重した翻訳であることが挙げられる。
刊行はこちらのほうが早く、旧約が1965年、新約が1970年である。
後述の「大正改訳聖書」に敬意を表して「新改訳」と名付けられた。
このどちらかであれば異端とされる恐れはない。
一般に正統とされる教えに興味があれば新共同訳が良いかもしれないが、
新世界訳に慣れた元エホバの証人であれば、
掲げるコンセプトに共通項のある新改訳のほうが好みに近いかもしれない。
また、エホバの証人が日本語の新世界訳聖書が発行される以前に用いていた聖書は「文語訳聖書」として知られ、
既に著作権が切れているため電子版であれば無料でも入手可能である。
これは「明治元訳聖書」の旧約部分と、
もともと新約のみを訳した「大正改訳聖書」を合わせたもので、
「舊(旧)新約聖書」とも呼ばれる。
この文語訳聖書は旧約にのみエホバ(ヱホバ)という神の名を用いているが、
新世界訳聖書では、原文には登場しない新約部分にまでエホバの名を用いていることで批判される。(注)
旧約聖書の第二正典(続編)も読むなら
カトリックと正教会では正典66巻以外にも旧約聖書において正典と同格として扱われる書物があり、
「新共同訳」には「旧約聖書続編」として収録されている。
その書名は以下のとおりであり、1,10,13を除いて正典と同格とされる。
1,第1エズラ書
2,マカバイ記1(第1マカベア書)
3,マカバイ記2(第2マカベア書)
4,トビト記
5,ユディト記
6,知恵の書(ソロモンの知恵)
7,シラ書(ベン・シラの知恵)
8,バルクの書
9,エレミヤの手紙
10,マナセの祈り
11,ダニエル書補遺
12,エステル記
13,マカバイ記3(第3マカベア書)
プロテスタントでは神の言葉はあくまで66巻のみであるとし、
「新共同訳」では「教派によって扱いが異なる」としているほか、
プロテスタント福音主義の翻訳者による「新改訳」ではこれを含まない。
キリスト教徒ではない立場からはどちらが良いとも言えないし、
またどちらでも良いだろうと思う。
敢えて向き不向きを考えるならば、
エホバの証人とは違う視点から聖書を見られることと旧約聖書続編がついていることから、
研究対象としては新共同訳が、
純粋に聖書通読のような形で用いる、
もしくは信仰心から聖書を読む場合は新改訳がおすすめできるのではないだろうかと個人的には思う。
(注) 新世界訳聖書のどの部分が具体的にどう改ざんされているかについては関連資料がWEB上に多数存在するので、是非参照していただきたい。代表的なページとして、「新世界訳聖書は改ざん聖書」というページと、Wikipediaの「新世界訳聖書」の項を挙げておく。
次は、聖書についてもう少し突っ込んだ考察である。