2世に対する異常な教育
さて、エホバの証人2世に施される教育の特徴として、
善人の皮を被るように教えられるという表現をこれまでの記事で何度か用いた。
この「善人の皮」について、掘り下げてみたい。
エホバの証人2世は、
エホバの証人として模範的であればあるほど、真面目であればあるほど、若ければ若いほど顕著に表れる傾向として、
この「善人の皮」の純度が高いということが言える。
これはJW全体の教育の特徴である、
組織の思い通りに動くロボット人間の育成というところと密接につながっている問題なのだが、
要するに親世代(1世)によって押し付けられた「エホバの証人としてあるべき姿」の期待に応えた結果としての姿であり、
エホバの証人による教育が素晴らしいことを体現するために作られた人間となってしまっていると言える。
このマインド・コントロールが成功している状態であれば、ある意味みんなが幸せでいられる。
親は「やはりエホバの教えは素晴らしい!」と感動し、
子どもは自分が褒められる人間に育ったことを誇りに思い、
そのような親子が会衆内に存在することで成員どうしの信仰も強められ、あるいは会衆の誇りともなる。
しかし、それはやはり子どもの個性や人格を無視して強制された人格形成プログラムであるため、
子どもは成長とともに自我が発達してきて「模範的2世」を演じ続けることに耐えられなくなり、
何らかの形で組織や親に疑問を持ったり、精神的な限界を迎えてしまったりした結果、
自ら組織を離脱したり、罪とされる行為をして排斥処分という形で追放されたりしてしまう。
2世全体を包括するにしては少々乱暴すぎる説明だが、
これがおそらくは、差異はあれども一般的に起こり得る「離れ2世」誕生のプロセスであり、
とりわけボロボロに傷ついて組織を出ることになる2世を生むプロセス、
と言えるのではないだろうか。
ゾンビ・ロボット人間的な2世
「哲学的ゾンビ」という概念がある。
エホバの証人として育成された2世は、まずこれと似た状態へ作り上げられる。
哲学的ゾンビは、概念であるからして実際には存在しないが、
「普通の人間と全く区別がつかないが、意識を持たない存在」と定義される。
意識不明という意味ではない。
噛み砕いて言うと自我を持たない、ある現象に対して普通の人間が行うような反応を
本能で行う(プログラムされているかのように)人間のような生命体という概念だ。
つまり、
・悲しい映画を見る→泣く(悲しいという感情はないが)
・お笑いを見る→笑う(楽しいという感情はないが)
・殴られる→怒る(怒りの感情はないが)
など、どう見ても普通の人間としか思えない反応を返すのだが、
こういうことが起きたらこう反応しましょうね、
という対応をプログラミングされたロボットでもあるかのような状態であり、無感情なのである。
この概念に従ってエホバの証人的プログラミングを2世に対して行うと、
様々な行動や反応が定型化し、ルーティンワーク化してくる。
たとえば、
・集会に行ったら→注解する
・鞭を喰らったら→感謝する
・仲間がいたら→にこやかに愛想笑いする
・良いことがあったら→「エホバだわ」
・経験談を聞いたら→「励まされました」
・誰かにムカついたら→「つまずきました」
・長老・開拓者→当然目指します
・統治体→一も二もなく従います
といった具合で、
自分の感情の都合などでこれらに反する行動・言動を行うことは許されない。
エホバの証人2世は実在する人間なので、
哲学的ゾンビのように無感情というわけにはいかないが、
エホバの証人に関するあらゆる物事に関して自分自身の感情とは無関係に定型的な反応を返してしまう。
そうしておけば、とりあえず間違いはない。
これにはおそらく減点法で評価をされがちな日本的文化の影響もあるかと思うが、
あまりにルーティンワーク化が進んでしまうと、
いざ今まで経験したことのない事態に遭遇した場合に判断力が全く働かなくなる。
以前の記事で指摘した「本当の自分がどこにあるのかがわからない感じ」というのは、
根本的にはこのエホバの証人的教育法からきているのではないだろうか。
自分は自分のことをそんな風には感じませんよ、と思われる方は、
既に本当の自分をちゃんと自覚し取り戻せているか、
あるいはプログラミングされた結果を本当の自分だと思い込み、
未だ自我を解放できずにいるかのどちらかだろう。
もっとも、一般社会でももちろんそうだが、
現実には「周囲から期待される自分像」というものを100%無視して生きることはまず不可能なため、
自我の解放と抑制のバランスを取った状態にあることが重要だ。
ここではエホバの証人2世が自我の抑制に傾きすぎた状態を要求されているということを強調したいわけである。
そしてこれが、エホバの証人から漂う独特のイヤな感じを生んでいる。
話している相手が目の前にいるのに、相手という人間を感じられないような感じを少なからず受ける。
これは会衆内の人間どうしで話していて私が実際に感じたことでもあるし、
一般社会の人間が訪問してきたエホバの証人を評して
「雰囲気が気持ち悪い」、「あいつらなんだか目が怖い」、「目が死んでいる」などと言う
(Twitterで「エホバ」と検索すれば大抵そのようなツイートが出てくる)理由でもあるだろう。
“人ではない何か”である2世
前述したことの繰り返しとなるが、
この特性を持った自我のない人間の大きな弱点は、イレギュラー対応ができないということである。
つまり、プログラミングにないことには対応できない。
例えば、「兄弟姉妹は仲良くすべきだと思っているからレクリエーションを企画したが、なぜか協力してくれない人がいた」とか、
「割り当てを果たしたあと長老が寄ってきたので当然お礼を言われると思っていたら、
そのことには一切触れず事務的な用事を言いつけられた」とか、
自分が当然返ってくると思っていた反応が得られないというだけでえらく傷ついてしまう、などということが起きる。
ひいては野外宣教に出ても「今、幸せですか」って聞いたのに「ええ幸せですが何か」と想定外の答えを返されて固まったり、
研究(「聖書レッスン」なるもの)でやたら一般的な聖書解釈に基づいてしつこくツッコミを入れてくるばかりで
話を聞いてくれない研究生をサタン認定して切り捨てたり、
要は自分が想定した問答ができないというだけでコミュニケーションを成立させられなくなってしまう。
というわけで、現役2世というのは概ね、
人を人とも思わぬ対応しかできないということが言えると思う。
悪気はないけれども、そもそも自分が人ではない何かなのだから当然だ。
これがエホバの証人2世として教育された者が持つ病的な性質で、
2世の根底にはまずこの「自分ではない何かである自分」という問題がある。
以上、かなり極端な書き方をしてしまったが、もちろん実際の2世はここまで酷い状態にある者は稀だろう。
思考力が死んでいなければ、組織に疑問を持ったり、自ら考えて組織を離れたりすることは十分に可能である。
(※)2019年9月の記事移設に際し、改題しました。