「1世紀のクリスチャン会衆」とは何か
以下の記事にて、キリストの死の解釈について書いてきたが、
キリストの死後、イスラエル周辺からヨーロッパにキリスト教が伝播するまでの流れをおおまかにおさえておきたい。
エホバの証人は「1世紀のクリスチャン会衆」以降のキリスト教は堕落した存在と考えているため、
出版物による知識だけでは一般的キリスト教の歴史に関する理解が極めて薄い。
また、「1世紀当時も神に用いられる唯一の組織があった」との思想に固執するあまり、
当時の状況が実際にはどのようなものであったのかに関する理解が著しく不足していると思われる。
まずは、キリストの死後から新約聖書成立時期とされる西暦150年ごろまでのキリスト教を特に「原始キリスト教」と呼ぶ。
新約聖書において何をおいても重要な書と言えばまずは四福音書だが、
そのうち初めに書かれたとされるマルコによる福音書が成立する西暦70年ごろまでのキリスト教は「ユダヤ教イエス派」、
または「ユダヤ教ナザレ派」などとも呼ばれている。
最初の教会はエルサレムにあったと言われるが、
従来のユダヤ教に異端視された「イエス派」は迫害を受け、
宣教はステファノらによりサマリア・シリア(イスラエルの北方)へ展開していく。
そこにペテロやパウロらが加わり、エーゲ海周辺の都市を伝道して回る。
新世界訳聖書が手元にあれば、裏表紙を開いたところにパウロの伝道旅行の軌跡が載せられているはずである。
パウロによる宣教は数回の旅行によって行われ、
そこで訪れたダマスカス(現在のシリア)、アンティオキア(シリアとトルコの都市が有名だが、
各地に同名都市が存在)、タルソス、ミレトス、エフェソス、ガラテア、デルベ(いずれも現在のトルコ)、
海を渡ってコリント、アテネ、テサロニケ、フィリピ(いずれも現在のギリシャ)
などといった都市名はエホバの証人なら馴染み深いはずだ。
(ちなみにこの記事の画像は現在のエフェソス遺跡である)
こういった都市に存在した「会衆」に送られた手紙が新約聖書の後半部分に収められているパウロによる書簡である。
そして西暦60年ごろには宣教がローマにまで達する。
パウロの宣教は一説にはスペインまで行ったともされるが、パウロは65年ごろにエルサレムで捕縛され、ローマへ送られて殉教することとなる。
キリスト教徒なら誰でもここまでは知っているわけだが、
それはパウロの教えこそが後年になって正統な教義と認定されたからであり、
多数のパウロの書簡が新約聖書を構成していることがその証拠となっている。
使徒たちによる派閥に分裂していた原始キリスト教
しかし、おそらく多くのエホバの証人がわかっていない、もしくは意図的に無視しているのは、
「1世紀のクリスチャン会衆」はそれほど一致した存在ではなかったということだ。
エホバの証人でも知っているはずなのは、ペテロとパウロの対立だろう。
ペテロがイエスの直接の弟子たちを中心とする「エルサレム教会」の最高指導者だったのに対し、
パウロは「アンティオキア教会」を活動拠点にしていたとされる。
多分にユダヤ主義的だったエルサレム教会と、
異邦人への布教のため律法をあまり重視しなかったアンティオキア教会とは激しく対立し、
その仲介を行ったのはイエスの兄弟(もしくは親戚)であるヤコブだった。
ペテロが西暦67年ごろに殉教すると代わってエルサレム教会を率いたのはこのヤコブだったという。
エルサレムで迫害を受けたあとも、キリスト教共同体はガリラヤ周辺やシリア周辺に成立していたし、
逆にユダヤ主義に回帰したキリスト教徒がパウロらとは別にエルサレムから
コリント、ガラテア、フィリピなどにパウロとは異なる教えを携えて行っていたことがわかっている。
またローマやアレクサンドリアにもペテロやパウロからは独立した形で教会が設立されていたことは
「使徒たちの活動(使徒行伝)」にも示唆されている。
キリスト教の理論的発展はパウロ書簡と、ヨハネによる福音書によって基礎付けられたのだが、
この福音書と他のヨハネによる書簡は使徒ヨハネによるグループに由来すると言われている。
というわけで、原始キリスト教におけるキリストの解釈は統一されたものなどは全くなかった。
それぞれ別の集団が異なる教義を教えていた状態が、
本当の「1世紀のクリスチャン会衆」の姿であり、教義について、
あるいは新約聖書の「正典」についてある程度の統一された見解が成立するまでにはまだ数百年の時が必要だった。
エホバの証人はパウロを巡回監督に見立てているが、その重ねあわせは大いに間違った認識であると言わざるをえない。
このように、使徒たちでさえバラバラの活動をしていたという事実から、
1世紀当時に「神の用いる唯一の組織」が存在したと結論付けるのは非常に困難である。
もっとも、ペテロもパウロも他の使徒たちも同様にキリストを奉じ、
根本的な部分では同じ目的を持っていたことは事実だろう。
お互いを認めていなかったということはないだろうし、
ましてや隙あらばお互いを滅ぼしてしまいたいなどとも思っていなかったであろうことは想像できる。
しかし、それは現代の一般的なキリスト教世界も同様である。
そのレベルのものが「一致」と呼べるならば、逆にエホバの証人の徹底した排他性は紛れも無くカルトであることの証左であり、
「1世紀のクリスチャン会衆」に倣っていないことを自ら証明しているに過ぎない。
(※)2019年9月の記事移設に際し、改題しました。
結局、ものみの塔の主張はファンタジーに過ぎないと結論せざるを得ないのだが、
その理由と、どのようにキリスト教がヨーロッパ中に広まるに至ったかを次に考察する。