本物の「預言者」とは何か
旧約聖書において神と人間とをつなぐのは、預言者だった。
当然、一神教の原則からして、預言者は神の言葉を伝えるだけで、神ではない。
その成り立ちから三兄弟宗教として理解されているユダヤ教・キリスト教・イスラム教に共通して偉大な預言者と言えば、
旧約聖書最初の五書を記したとされるモーセだ。
神から与えられた律法をまとめた「モーセ五書(トーラー)」は現在でもユダヤ教の律法になっているほど重要なものだ。
ところが忠実な神の僕だった彼は神の怒りにふれた結果、約束の地に入らせてもらえず、途中で死んでしまった。
墓すらもどこにあるかわからない、という扱いを受けてその生涯を閉じたのである。
これはいくら預言者といえどもただの人間には変わりないという戒めであり、
預言者や御使いの類を崇めようとしてたしなめられる例なども含めて、
神以外への崇拝については旧約・新約を通して数多くの警告が書かれている。
ところで、古代においてもこの預言者が本物か偽物かは見分けにくかった。
モーセなどはファラオの宮殿で超常現象をいくつか起こすのだが、
あろうことか最初のいくつかは宮殿の人物も同じようなワザを起こしてしまっている。
もちろん最終的にはモーセが勝つのだが、これではマジシャンと預言者の区別はつかない。
正しい預言者の言葉を聞かなければ、人々は神と交流できない。
というわけで旧約聖書を見渡してみると、預言者として認められる条件はおおむね以下のとおりだ。
1,過去の預言者の言葉を踏襲している。
イエスも、モーセ五書がモーセの著作であることを踏まえた発言をしている。
2,預言者である先人から認めてもらう。
モーセはヨシュアを後継者として指名したし、イエスもバプテストのヨハネに認められたという記述がある。
3,偽預言者を論破する。
要するに自称預言者どうしの直接対決。
しかし、一般の民が神の言葉を直接聞けない以上、
結局は信じるか否かの問題になってきてしまう。
よってその時代の事情に応じて人々が適当に決めるということにならざるを得ないのだが、
そうなると当然間違いが生じる。
そのもっとも大きな間違いが、神が送ったイエス・キリストを偽預言者として処刑したことである、
というのがキリスト教の理屈だ。
「統治体」は現代の偽預言者
また、一般のキリスト教会ではイエスを最後の預言者として解するのが一般的であり、
聖書のみに従うとするエホバの証人的見地から言っても、
ギリギリ「預言者」の範疇に入れられるのは新約聖書筆者(具体的には使徒ヨハネ)までであると思われるのだが、
エホバの証人の最高権力者グループである「統治体」は、
旧約聖書における預言者との類似性がかなり認められると個人的には思う。
無論、その権威付けのロジックは新約聖書に書かれた内容に基づいているが、
統治体の行っていることは預言者そのものである。
ものみの塔協会が自身について出している
「ものみの塔協会は真理を継続的に供給する神に用いられている唯一の経路です。」
という声明は、
「真理を継続的に供給→神の言葉を伝える」
と読みかえれば預言者そのものだ。
「神が19世紀にご自分の用いる唯一の組織を再興された」
という部分を信じるかどうかはさておき、
前述の預言者の条件も一応、当てはまる。
1,過去の預言者の言葉を踏襲している。
その適用の仕方が正しいかどうかはさておき、必ず聖句を根拠として提示する。
2,預言者である先人から認めてもらう。
この場合の預言者は統治体の先人ということになるが、欠員が出ると新たにグループに人員が補充されるという形で継承される。
3,偽預言者を論破する。
論破できているか否かはさておき、積極的に他教派や他宗教を攻撃する。
なぜ自らエホバの証人という宗教に入信していく人(1世)がいるのか、
というのは自分自身にとってとても大きな疑問なのだが、答えの一部はここにあると思う。
即ち、イエス以来預言者の出ていないキリスト教やユダヤ教、
あるいは釈迦の没後2500年を経て衰退している仏教などははっきり言って過去の宗教であり、
今まさに神の言葉が自分たちに届いているという感覚を味わえるほうがより魅力的である、ということだ。
これは人間の教祖や強力な指導者を擁することがほとんどである新宗教・新興宗教(注)に共通する特徴であり、
この点に魅力を感じる人ははっきり言ってカルトに騙されやすい人だろう。
しかし、これはそこまで特殊なことではない。
例えばメンバーの半分が既に亡くなり、
往時の演奏は音源で聴くことしか叶わなくなってしまったビートルズより、
目の前で歌って踊ってくれて、
しかもどんどんメンバーが入れ替わっていくので当面消滅する恐れのないEXILEのほうが圧倒的に新規ファンの獲得に有利で、
ファンどうしの連帯感も強く大いに気分が高揚するのは至極当たり前の話だ。
エホバの証人によれば信者が増えたのは神の祝福のおかげらしいが、
何のことはない、仕組みから言っても当たり前の話なのだ。
ただ、ここまで信者数を拡大できるほどの人気を獲得したのは素直にすごいことだと思う。
せっかく立ち上げても信者が集まらず継続できない新興宗教など、いくらでもあるからだ。
(注)「新宗教」と「新興宗教」は同一の意味で使われることが多いが、日本の宗教学では19世紀以降(幕末以降)の宗教に関して「新宗教」の語を基本とし、特に1970年代以降に台頭してきたものを「新興宗教」と呼び分けることがある。エホバの証人は米国で1884年に始まったという面では新宗教だが、日本で1970年代以降に台頭してきた(有名になった)という意味では新興宗教のくくりで語られることも多い。
では、いったん聖書時代に立ち返り、
当時のキリストとはどのような存在だったのか、
また現代のエホバの証人にとってキリストとはどのような存在になっているかを考えてみたい。
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