物事には功罪の両面がある
さて、「罠」シリーズも9回にわたり書き続けてきたが、ここで一旦締めることとし、
エホバの証人問題に関して必要であろうと思う基本的な考え方を、まとめとして書いておきたい。
ここまで元エホバの証人コミュニティについて様々な「罠」を取り上げてきたが、
その多くは良い面の裏返しとして存在するものであることを再三述べてきた。
つまり結局のところ、何に関してもプラスとマイナスの両面があるということを意識しなければならないということだ。
極端に走ること、物事の一面しか見ないこと自体が罠なのだ。
ではなぜ、極端なものの見方や決め付けが起きるか。
それはおそらく、個々人が自分の抱える問題の大きさというものを正しく認識できていない場合が多いところに原因があると思われる。
元エホバの証人が抱える問題は様々で、
それぞれの性質は似ていたとしても、どの要素があるのかないのか、
それぞれの問題がどの程度の大きさでどのような割合なのかは千差万別だ。
であれば、問題はまず分析して考えないと全体の大きさは分からない。
全体の大きさが分かっていないのに、なんとなく問題が大きい気がするというだけで、
全てものみの塔のせいだ、という決めつけてうさ晴らししようとする。
それでは相変わらず思考停止していることに変わりはない。
つまり、今までJWだったのが反JW教にすり替わっただけの状態だ。
現状を正しく認識すること。
これが何よりもまず重要なことだ。
全てはそこから始まる。
今自分がどういう状態で、何を持っていて何を持っていないのか、
どのような方向へ向かいたいのか、自分はどうなりたいのか。
これはどのような生き方をするにしろ、本来は死ぬまで考え続けることだろう。
これはたとえエホバの証人だったとしても同じであるはずだ。
現状を正しく認識できない理由の一つは、紛れもなく「エホバの証人だった」ことにあるだろう。
宗教全般に言えることだが、とにかく自分に関することは何もかも良くないことだと捉えさせられる。
それを救うのが神であったり仏であったりするからこそ、宗教が成立するという構造を持っている。
「なんでも悪く捉える」のがエホバの証人の極端な特徴だったとすると、
エホバの証人をやめて「なんでも良く捉える」ようにした人は、それはそれで極端だと言える。
今の時代は”ポジティブ”、”明るい”、”前向き”ということが賞賛される風潮があるため、
「なんでも良く捉える」のは”ポジティブ”だから良いことだと思われがちなのだが、
実はこれもまた、現状を正しく認識することにおいては妨げとなるのである。
物事とその捉え方の関係というのは、たとえば+と-の掛け算のようなものだ。
諸事情抜きで単純に考えて、試験に合格したことを悲しんだり、事故にあったことを喜んだりする人間は、おかしい。
つまり、
良いことを良いと取ることは良い → [+]×[+]=[+]
良いことを悪いと取ることは悪い → [+]×[-]=[-]
悪いことを良いと取ることは悪い → [-]×[+]=[-]
悪いことを悪いと取ることは良い → [-]×[-]=[+]
というのが基本だ。
良いことは良い、悪いことは悪いと正しく現状を評価することが全ての基本となる。
まずそれをせずして、
とにかくものみの塔・エホバの証人の全てが悪なんだとか、
今までの人生の全てが無駄だったんだとか、
元エホバの証人はとにかく良い人たちで全面的に分かり合えるんだとか、
そのような極端で一方的な思い込みや論調がまかり通ってしまいがちなところに、
人間としてもコミュニティとしても大変な危うさを感じざるを得ないのである。
すべからく、物事には功罪の両面がある。
その視点を持つことは、エホバの証人的思考から脱却する上でもっとも必要なことだろう。
→まとめ(2)へつづく