さて、ここまではエホバの証人の社会問題から法的責任論に関して考察してきたが、
ここからは逆に、個人レベルにフォーカスして書いてみたい。
エホバの証人を辞めたい、または辞めた2世の悲痛な叫び(3世以降も含む)というやつだ。
これを社会的に見てどう斬っていくことができるか、を書いてみたい。
具体的には、エホバの証人をやめて一般社会で生きていこうとする2世を”この世”から見たらどう見えるかについて書く。
これは、多くのJWブログがエホバの証人をやめるまでの、
あるいはやめて間もない時期の心境を記録したものであるため、
元信者の視点にのみ立って「世に出て苦労した、大変だった」という側面が強調されてしまいがちであることから、
逆に一般社会の視点に立って、どのような考え方で行動すればスムーズに社会に馴染み、
なおかつ酷い目に合わずに済むかを少しでも描き出してみたいという目的によるものである。
なお、個々の信仰の問題に関しては無視して記述する。
エホバの証人をやめるときの恐怖
さて、今まさにエホバの証人をやめたいと思っているあなたも、
排斥されて大変な思いをしているあなたも、
あの頃は大変だったなぁと思っているあなたも、
やはり「エホバの証人をやめて一般社会に馴染む」ということに関して非常に気後れする、
不安になるといったことがおそらくあるだろう。
20代ならまだしも30代とか40代とか、相当な年齢までエホバの証人としてやってきてしまい、
今さら社会に出るのは正直怖いし、実際に上手くやっていける自信がないから、
やめたくても二の足を踏んでしまうという方は多いのではなかろうか。
まず、そんな風にエホバの証人はとても特殊な世界だと考えていること自体が、
まだものみの塔のマインド・コントロール下から脱せていないことの証拠であると認識してほしい。
外の”世”は怖いところだ、エホバの証人だけが平和に暮らせる組織なのだ、
と幼いころから刷り込まれてきた意識を変えられていないだけである。
信仰による満足感を度外視して考えれば、エホバの証人であろうと”世”であろうと、大変さにはそれほど違いがない。
人間は、本質的に変わらない
エホバの証人でなくなったら、あなたはガラリと別人格になってしまうのだろうか?
あなたの周りには”世的”な特質を示してしまう1世の兄弟姉妹は1人もいないのか?
エホバの証人であろうとなかろうと、同じ人間である。
エホバの証人は「良い人の皮」を被るようにというのが教義だからお行儀よくしているだけで、
本質的な部分では”世の人”とたいして変わらない。
というより、そもそも「良い人の皮」を被るのに疲れたから、
あるいは善人の皮を被っていながらとんでもないことをして自分を苦しめるエホバの証人(特に親など)が周りにいるから、あなたはその組織を出たいのではないか?
正直、エホバの証人をやめて”世”に漕ぎだしたときは、
まるで刑務所から出てきた人間のような心境になるものだ。
やめ方が排斥(破門)だった場合は、
罪を糾弾された上で罰として放り出されたわけだから、なおさらである。
やめたくないのに放り出された人からすれば、
逆に魑魅魍魎が跋扈する刑務所に収監されたような、
もしくは流刑に処されたような心境になるかもしれない。
が、断言しよう。
自分が元エホバの証人であることを知らないはずの人間に
「こいつはもしやエホバの証人だった人間か!?」などと容疑をかけられ、
「この元エホバの証人が!」と罵られ、差別され、つつきまわされた挙げ句、
全員に無視されるなどということはまずありえない。
それはあなたもよくご存知のとおり、どちらかと言えばエホバの証人の側に見られる、悪しき所業である。
付き合う人間は、選ぶべし
個人的にエホバの証人が嫌いだ、という人間は世の中いくらでもいようが、
だからと言ってそれをやめてきた人間をいじめる、ということはそうそう起こることではない。
むしろそのような人はエホバの証人嫌いであるだけに、
やめてきた人間のことは歓迎するのが普通であり、
やめた人間までも忌避するようなヤツは人間性に問題がある可能性が高いので、
そもそも付き合わないほうが良い人間なのである。
そのような人間は差別主義的であったり、
あなた自身に対し何か恨みがある可能性もある。
自らのコンプレックスが強いが故に他人をなんとかして貶めたいと思っている可能性もある。
無論あなたも、エホバの証人だったというコンプレックスを覆したいからといって他人を貶めるような真似をしてはいけない。
それは人として終わっている。
エホバの証人だったからといって、そこに妙な劣等感を抱く必要はない。
付き合う人間はこちらが選ばせてもらえばいい。
あなたは今まで付き合いたくもない人間と散々付き合ってきたのだから。
→後編へつづく