※この記事は「エホバの証人2世のコンプレックス 概論(1)」とセットになっています。
さらなる具体的な対比
さて、「エホバの証人2世のコンプレックス(1)・(2)」で書いてきた様々な要素は概論でしかなかったため、
ここで少し具体的に掘り下げてみたい。
エホバの証人をやめる、ということがそれほど特殊なことではないと考えられるよう、
一般社会に例えて列挙していくこととする。
エホバの証人をやめるときの恐怖(具体化)
例えられるのは「転職」である。
一般に会社組織にはどこでも「社風」と呼ばれる文化があり、
同一業界内で転職する場合は、前の会社の社風を濃く身にまとった人物が自分の会社に転職してくる、
などということもよく起こりうる。
そのような人物はしばらくの間、新しい会社の社風に馴染むまで時間を要するし、
学ばねばならない独特のルールや不文律も多い。
少しばかりの期間、居心地が悪くなるのが嫌だから転職せずに今の会社(エホバの証人)で我慢するか、
よりよい自己実現を求めて転職(一般社会)に踏み切るのかは、あなた次第である。
一般社会にまで目を向ければ、属している業界の違いや生まれ育った地域性などによって実に様々な人間が存在する。
その中で自分だけが浮いて見えるかも、という心配は、はっきり言って杞憂である。
せいぜい、変わった人のうちの一人として見られるに過ぎない。
人間は、本質的に同じ(具体化)
ここでは人格の話をしたが、人というのは誰しも「役割」を”演じる”ことによって関係が成り立っている。
仕事であれば、
サラリーマンを”演じる”、デパートの店員を”演じる”、警察官を”演じる”、先生を”演じる”
ことによって社会が成り立っているのであり、
それらの職業を”演じ”ている人がプライベートではどのような人間であるかは基本的に問われることがない。
もちろん犯罪は論外だが、極端な話プライベートでどんなに性格が悪く嫌われ者であろうと、
それは仕事そのものの遂行に関する評価とは別である。
ところがエホバの証人は、
対外的な活動のみならず、仲間うちでもプライベートでも家庭内においても、
誰も見ていなくても24時間365日エホバの証人を”演じる”ことを求められているのであり、
これが精神的な疲弊を生む大きな要因なのである。
少し脱線するが、これは同じく365日「主婦」や「母親」でいることを求められることによる疲弊と、構造が似ていると思う。
上手く息抜きできる器用な方ならともかく、「自分の中の理想の主婦像」を実現しようと頑張ってしまう人が、
ほどなくして精神的に疲弊してしまうであろうことは容易に想像がつくというものだ。
信仰の問題を抜きにすれば、素の自分でいられる時間をちゃんと確保できることは自分が自分でいられるために重要である。
「模範的なエホバの証人」をずっと演じ続けてきたせいで、本当の自分とはいったい何なのか、
自分の気持ちはどこにあるのかがわからなくなってしまっていると感じる人もいることだろう。
仕事で当然演じるべき役割はともかくとして、
エホバの証人として作られた仮面を外して素で振る舞ったとき、
そこに“世の人”と決定的に異なる何かがあるということは、ない。
エホバの証人でいいヤツは”世”でもいいヤツだし、
エホバの証人でイヤなヤツは”世”でもやっぱりイヤなヤツである。
真面目な人ほど完璧な仮面をつけた状態に陥り、悩みとなってしまいがちであるが、
エホバの証人であるということは究極的に考えれば本来の自分を完全に覆い隠さなければならないという構造を持つのであり、
それをものみの塔の言うように「新しい人格」と捉えるのか、「ロボット人間」と捉えるのかはやはり、あなた次第である。
付き合う人間は、選ぶべし(具体化)
先述の内容とも重なるが、エホバの証人として受けた教育によってどれほど人格が良くなったか、
あるいは悪くなったかは証明のしようがない。
たら・ればの話なので、考えても仕方がない。
2世は確かに「高い道徳基準」で育てられたかもしれないが、
少なからずそれが押し付けであったことで、
大人になっても「悪いこと」には手が出せずに「高い道徳基準」を守り続けるかもしれないし、
逆に抑圧されていたことでエホバの証人をやめた途端、
一気に”飲む・打つ・買う”に走ってしまうような人もいる(注)。
問答無用で厳禁、ではなく、それを行うことによるリスクも同時に考えさせる教育を行い、
自己責任で決定させるというプロセスを経ていれば、
どのような道徳基準を守るかの結果は変わった可能性が高い。
あるいは、親との関係がこじれたことや体罰や精神的抑圧で受けた心の傷によって、
本来はそうならなくて済んだところが、性格がねじ曲がってしまったかもしれない。
それらは今さらどうしようもないので、負の部分も含めて今の自分と合う人間を探すことだ。
無論、”世の人”で以前からの親友がいるなどという場合は大変ラッキーである。
また、エホバの証人にはこんなとんでもない輩がいますよ、
というブログ記事が大変多いことからも分かるように、
エホバの証人でも悪いヤツは悪い。
みんなで善人の皮を被りましょうね、という共通のルールがあることを前提にしているから
そういう連中はものすごい悪事を働いているかのように取り上げられるが、
“世”では珍しいことではない。
中には”世”であっても決して許されざる狼藉者の例もあるが、
大半はそこまでの悪人(ここで論じる悪人とは、犯罪者という意味ではない)ではないと言えるだろう。
エホバの証人は「それでも高い道徳基準を教えているからエホバの証人のほうが良い」という論理で自らの優位性を強調するが、
同じ論理は別の宗教にも当てはまる。
別の宗教と比べてエホバの証人の道徳心(教義の道徳レベルではなく、現実的に道徳を重んじる心)が特段優れているとは、正直思わない。
それは、例えば伝道のために車を近所のスーパーに無断駐車したり、
路上駐車したりといった所業に表れている。
そうであれば、善人の皮を被った悪人と、
悪人だとわかりやすい悪人とではどちらが付き合いやすいだろうか。
エホバの証人は「この世は悪人だらけ」であるかのように信者に教え込むが、
付き合う人間を選ぶ必要があるのはエホバの証人だろうと”世”だろうと、同じである。
むしろ、エホバの証人でいると面倒なヤツとも付き合わなければならず、
自分も善人の皮を被っていて文句を言えないことも多いので、
それもまた精神的に疲弊する原因となるのだ。
(注)「少なくともエホバの証人の親に育てられたことで、”高い道徳基準”を教えられてきたはずで、それは良いことだったはずである」という主張をする方もいらっしゃるようだが、どんな良い教えにしても強制的・脅迫的な押し付けをすることによって人格が歪んでしまうという弊害のほうがはるかに大きいことには留意すべきである。無論、「押しつけ」の度合いは家庭や所属会衆によって様々であり、全員一律ではないが。
→後編へつづく