さて、去る2016年11月8日、ドナルド・トランプ氏が次期アメリカ合衆国大統領に当選した。
世間ではこれを「終わりの始まり」だとか、「第三次世界大戦へ向かう」などと見る向きもある。
確かにそうかもしれないし、そうではないかもしれない。
少なくとも私は、「トランプだからといって直ちにそうなるわけではない」と思っている。
それは、米国建国の歴史とそれに基づく米国の政治に対する考え方を紐解けば、分かる。
「成功者」に対するアメリカ人の考え方
米国という国はプロテスタントに基づき、プロテスタントの信仰を実現するために作られた国である(注)。
だからこそ、個人と神との関係こそが全てであり、神の祝福は集団に対して与えられるものではない、という考えが根本にある。
神が祝福を与えるのが個人に対してであればこそ、世俗的な成功をおさめた人には神の意思が働いている、と米国では考えられる。
つまり、大金持ちや選挙における勝利者だ。
成功者は「神意を受けて成功した」と考えられるから、米国では成功者が讃えられる。
アメリカンドリームは神意であって、讃えられるべきもの。
ここが「みんな横並び」が好きで「出る杭を打つ」日本とは決定的に違う、正反対なところなのだ。
米国における「選挙」の本質
ということはつまり、選挙というものにも神意が働いている、と考えるわけなのだ。
選挙によって権力の正当性を担保する。代わりに責任が伴う。
権力を持たせる代わりに、任期があって、再選の回数も制限がある。
それが終われば確実に辞めなければならない。
これが終身であれば、王制のような独裁政権になってしまう。
そもそも米国では政治家というものに対する評価が低い。
嘘をつくし、尊敬されない仕事なのだ。
しかし政治を専門で担当する人間はどうしても必要だ。
だからこのような仕組みを作り上げ、ある程度明確に権力と人格を分離できるようになった。
これで日本のように、辞めたトップが政治家でなくなっても影響力を持ち続ける、という事態にはならない。
たとえ不祥事で辞任した元首相であっても、いろんな面で(例えばスポーツの世界などで)影響力を持ち続けているのをあなたも目の当たりにしていることだろう。
米国では、こういうことは許されない。
神の権力は無限だが、政治家の権力は有限だ。
選挙という正式な手続きを踏んで、選ばれた人だけが権限を持つ。
権限を持っている間は責任が伴い、ジャーナリズムによる批判に晒され続ける。
大統領個人という人間に対してではなくて、大統領という職務に対して忠誠を誓うのがアメリカという国なのだ。
人間的には尊敬していなくても、選挙には神意が表れていると考えるからこそ、当選した人のことは結果的に信頼する。
聖書を土台に考えると、見えてくる
だから、トランプの人格や極端な発言に注目して批判するのは、究極的にはナンセンスだということになる。
全米の得票数だけを比べてみればヒラリー・クリントン氏が勝っていた、などというのはなんの意味もない。
予め決めてある仕組みによってトランプが勝ったのなら、それは神意なのだ。
ローマ13章にあるとおり、
「地上にある権威は、すべて神が立てたもの」
なのだから。
このように「地上の権威は、すべて神によるもの」で、「正義のために政治権力はある」と考えるからこそ、大統領は聖書に手を置いて宣誓する。
神の意思に応えようとする態度の表れというわけだ。
大統領は神意によって選ばれているので、クリスチャンであれば従う義務がある。
という理屈になる。
なぜなら、聖書によれば、最後の審判までの期間は人間が人間を統治して良いとされている。
ルターはその政治を、隣人愛の精神で行うべきだと説いた。
政治のトップは合法的に選ばれるべきで、それは神が人間に与えたものであるがゆえに、クリスチャンはそれに従う義務がある、というわけである。
米国のシステムは日本人が思う以上に筋が通っている
このような考え方というのは、アメリカ人であれば根本的に刷り込まれている。
日本人にとっての「和をもって尊しとなす」レベルの土台として、他者から指摘されないと気づかないほど根源的に刷り込まれているもののようだ。
なにしろ、自由や責任、権利、個人、平等などといった言葉は聖書の言葉が元になっている。
英語はもちろん、その元になっている西欧諸国の言葉は全て聖書の翻訳によって成立した言語である。
基本思想は、使用する言語に大きく依存する。
当然、我らが日本語も例外ではない。
日本人が日本語で考えている限り、何百年経っても思想までは西洋化しようがないのである。
これが、キリスト教文化は寛容に受け入れつつも、日本におけるキリスト教徒に対して日本人が抱く違和感の、根本的な要因でもある。
だから今は騒いでいるアメリカ人たちも、実際にトランプ大統領になったらいろいろ荒れつつも、それなりにおとなしくなるだろうと思われる。
なおかつ大統領の立場からすると、神に任命されたのに失敗するということになると、神の怒りを買いかねない、と考えられる。
これは単なる一個人としての、例えば不動産王としての失敗とは話が違ってくるわけだ。
「トランプ氏が実は意外に敬虔なプロテスタントである」という情報が正しければ、彼は大統領としてちゃんと職務を実行せざるを得なくなるはずなのだ。
最初から問題視されているからして、ジャーナリズムもここぞとばかりに頑張るだろう。
日本は、このようなシステムを表面的に輸入しているから今一つ上手くいかない。
上手くいかないけれど、日本人どうしは話さなくても意思が通じるハイコンテクストな文化を持っているから、「根回し」によって曲がりなりにもなんとか丸く収まっている、というのが現状なのだ。
ものみの塔会長選が廃止されたのはなぜ?
余談だが一点だけJWに絡めておくと、この文化的背景を踏まえて考えれば、ものみの塔の会長を選挙で選んでいたというのはアメリカ的に非常に正しい。
「神意だからこそ選挙はいらない」というロジックで廃止したとしても、逆に「選挙結果には神意が働いている」と主張し続けることは今でも可能なはずなのだ。
選挙システムを辞めてしまったほうがむしろおかしいとさえ言える。
「”民意”によって決まるために自分の思い通りにならなくなることを恐れた人が、自分の思い通りに物事を動かす(=独裁状態)ために制度を変えた」
と見たほうが正確なのかもしれない。
対処しやすい時代などというものは、ない
望むと望まざると、世界は変化する。
既得権者による膠着した世界が変化すれば、弱者にもチャンスがある。
あなたをはじめとして、元JWの多くは間違っても「既得権者」の側ではないだろう。
そうであれば、変化はむしろ歓迎するべきことなのではないだろうか。
過去を見ても意味がない。
未来を見れば不安になるだけ。
今を、現在を精一杯生きる。
これが、いつの時代にも成功するために必要な普遍的マインドセットだろう。
(注)米国建国の歴史についてはものみの塔の根幹とも関わる非常に重要なテーマで、本ブログでもテーマの一つに設定しているが、未だ記事にできていない。この記事の前段階の話としてそのうち記事化したいと思う。
(※)この記事は、2016年11月11日にTwitterにて連投した内容を元に、加筆修正したものです。