情報処理能力の甘さと全体主義
前回は、元エホバの証人コミュニティが必然的に偏ったスタンスにならざるを得ないということを、
一般社会における被害者の会との類比で考察した。
では、それが実際に「覚醒者」に対し、どのような影響を及ぼしてしまうのか。
基本的にデメリットを取り上げていくが、
これはメリットと表裏一体である場合もあるため、
両面を考察する形で進めていきたいと思う。
元エホバの証人コミュニティでは当然ながら、
反ものみの塔というのが絶対的な正義として存在する。
となると、エホバの証人だったころには
「信者が増加したという報告=やはり唯一正しい組織だから祝福されてるんだ!」
とか
「どこそこの国でエホバの証人への迫害が=やはり唯一正しい組織だから迫害されるんだ!」
というように、
なんでもかんでもものみの塔は正しい!という論理につなげていたのと同様、
とにかくありとあらゆることを「ものみの塔が間違っている証拠」としてあげつらうようになってしまう。
特に児童性的虐待裁判のように、
信者には知らされないものみの塔に関する時事的なニュースというのは、
一部の人々(オピニオンリーダー的存在)が
外部ソース(この場合は外国語ウェブサイトであることが多い)から情報を引っ張ってきてブログ記事化し、
あとの人々は何も考えずにその記事を全面的に信じる、
といった構図が見受けられるのが現実だろう。
さらにコミュニティ全体で、ものみの塔はとにかく悪いんだ!という機運が盛り上がってしまうと、
コミュニティにありがちな、そして特に日本人にありがちな同調圧力に押され、
反対の立場が取れなくなってしまうことも問題を複雑にする。
ひっそりとコミュニティを去っていく人が出るのも、
そういう空気感に耐えられなくなってしまうというのが大きな理由としてあるのではないだろうか。
エホバの証人が反転したコミュニティ
もちろん、ブログ記事という形で普通に暮らしていてはなかなか触れることが難しいような情報を
発掘し、編集し、公開してくれる方々がいるということは紛れも無くこのコミュニティ最大のメリットの一つだ。
しかし、それに乗っかって騒ぎ立てるだけの人々は、
とにかくものみの塔をなじりたい、
恨みつらみの気持ちでやっているうちはまだしも、
お昼のワイドショーだけ見て「まぁ、○○ってヒドいのね!」と信じこむ暇な奥様などと、
言い換えれば情報弱者と呼ばれる人々とどこが違うのだろうか。
もっと言えば、ものみの塔の出版物だけを読んで判断していた時代と何が違うのか、ということだ。
元エホバの証人に共通して欠けている、
いや鍛え方が足りていないのは、取りも直さずこの
「情報を鵜呑みにせず、じっくり調べたうえで取捨選択、判断する」
という能力なのではないだろうか。
情報統制が自分に害をもたらしてきたと自覚しているのなら、
情報のコントロールをやすやすと他人の手に任せることはやはり危険だとわかるはずである。
ものみの塔の姿を冷静に見極めることは、ちょうどその良い訓練になるはずだ。
繰り返すが、やはりこの構図にも糾弾されるべき悪人、
というのは基本的に登場してこないことがポイントだ。
情報を引っ張ってきて記事化し、
ものみの塔の問題点を広く知らしめようとする人、
それを受けてやはりそうだったのか!とものみの塔の問題点を再認識し、
ますます嫌悪感を再燃させる人。
どちらも、何も悪いことはしていない。
誰も悪くはないのだが、
結果として元エホバの証人であった人がいちばん悩んでいるはずの、
元エホバの証人であったことのデメリットが改善されないままになってしまう可能性を多分に孕んでいる。
先ほどのワイドショーの例よろしく、
もちろん一般社会にも情報弱者と呼ばれるような人々はたくさんいる。
しかし忘れないでほしいのは、そのような情報に疎い、
信じ込みやすく、疑うことを知らない層の主婦たちこそが、
ある時代にものみの塔にとって最大のターゲットとなり、
こぞって幼い子どもを連れてエホバの証人になってしまうという出来事が実際にあったということだ。
その結果、大人になった今になって苦しんでいる人々が大勢いるのではないか。
形は違えど、親たちと同じ轍を踏んでいて良いのだろうか。
それで果たして、親より幸福になれると言えるのだろうか。
本当の意味での脱JWとは、精神的に解放されることであるはずだ。