戦い方(2) ―社会的責任の追及―
しかし、それでは法律の抜け穴を突いて、
あるいは法律で裁かれないからと言って人を苦しめる行為が許されるのかと言えば、そういうわけではない。
その部分をカバーするのが「社会的責任」である。
社会的責任とは、
「市民としての組織や個人は、社会において望ましい組織や個人として行動すべきであるという考え方による責任」
と定義される。
要は、エホバの証人が社会にとって望ましくない存在であると判断されること、
またそのような認識が人々の間に浸透していくこと自体が、
ものみの塔聖書冊子協会およびエホバの証人に対する社会的制裁となるわけである。
平たく言えば「イメージを落とす」「ネガティブキャンペーンを張る」ということだ。
多くの元信者が関わっている活動はこちらであり、ブログ執筆もこの戦い方に分類される。
ただし、現状としてはやはりエホバの証人関係者内のみの相互閲覧にとどまっており、
これをいかに社会全体へ啓蒙していくか、
というより何らかの別の形をもって活動を行えるのか否かを検討することが今後の大きな課題と言えるだろう。
現状でも、エホバの証人に興味を持った人がインターネットで検索することで
様々な情報を提供することができるだけの情報量は揃っているが、
100人が100人とも検索をするわけではない。
個々の問題を語る上で最も重要なのは、
「組織の教義に従わないと、また組織の一員であるか否かは命に関わる問題である」
ということが信者の間で堅く信じられているということだ。
この「マインドコントロール」の要素がなければ、
エホバの証人問題を訴えかけても効果は薄い。
では、具体的にどのような情報がエホバの証人の現実を社会に知らしめる上で効果的か。
いくつか例を挙げてみる。
<破門・脱会者問題>
おそらく、元信者として書きたい人が多いであろう最大のテーマは、
「排斥・断絶および自然消滅」だろう。
もっとも、「エホバの証人がキリスト教的にどうおかしいか」という情報はほとんど一般に訴えかけない。
日本におけるキリスト教徒率は1%未満と言われ、先進国の中では驚異的に低い率だからだろう。
それよりは排斥者の受ける非人道的な仕打ちの啓蒙が効果的と思われる。
エホバの証人でない人に対しては、エホバの証人になった場合こういうことが起きる可能性がある、
という観点と、
ものみの塔の指導がいかに人権侵害的か、
といった観点で情報提供ができる。
特に家族であっても交流が制限され、
それによって被る精神的なダメージは「人権問題」としてアピールしやすい。
無論、そんなことになるくらいなら「入信しなきゃいい」し、
家族との断絶というのは宗教が関係しなくても「よくあること」ではある。
だからこそ、同じ排斥でも1世と2世ではかなりの差があると考えられる。
自主的であれ強制的であれ、脱会することに関して命に関わるほど悩まされるのだ。
自らその信仰を選んだ者と、
幼少期からそのように教育された者の間には埋めがたい差があって当然である。
<児童虐待問題>
また、2世の苦しみを語る上で最もわかりやすいのがムチの問題だろう。
児童虐待に関しては近年ますます社会問題として認識されており、
実際にJW内でムチが横行していた時期と比較すると社会認識の遅れ甚だしいのが非常にもどかしいところである。
虐待の経験は組織の異常性を語る上でわかりやすいアイコンであるが、
しばしば「それでも親はあなたを愛するが故にやっていたはず」などという心無い言葉を返されることもある。
それに対してはやはり前提となる、
「子どもに苛烈な体罰を与えることが(親自身の)命に関わる」
という教えをもとに行われていたことを強調することで、
決して子どもの福祉を考えて行われていた行為ではない(親のエゴ)という構図を浮き彫りにできる。
また、関連して、
「やりたくもない活動に強制的に参加させられた」
「学校行事や地域行事への参加を禁じられた」
「信者以外との交流を制限された」
などの事柄が子どもへの不当な人権侵害として心に深い傷を残したという問題もある。
その延長としてさらに、高等教育の否定という問題もあるが、
大学へ行かせてもらえなかったというのは世間的には特に珍しいことではないため(その多くは金銭的問題だが)、
心の傷として残っていたとしても社会に訴えるほどではないかもしれない。
18歳と言えば就業可能な年齢であり、
必要なら働いて、あるいは奨学金をもらってでも大学に通えばいいではないか、
と言われるのが関の山である。
よって、この場合も「命に関わる」論を持ち出す他はない。
<財産権と貧困の問題>
エホバの証人は金額的に法外な寄付を要求する宗教ではないとは言え、
その反面信者の経済的な豊かさを否定する教義を持っている。
組織の活動に邁進するためにキャリアを捨て、
全時間の仕事を辞め、その日暮らしの不安定な生活を推奨される。
乏しい財政の中から寄付をし、大会へ行く費用を捻出する。
将来に備えた蓄えは一切ない。
ひいては生存権として知られる「健康で文化的な最低限度の生活」も営めない(注)。
これも世間的に見れば自己責任だが、
熱心に活動を行うことが命に関わると教えられていればこそ、
そういう活動をさせておきながら一切なんの保障もしない組織の悪辣さを語ることができる。
<輸血拒否問題>
自身と直接的に関係した問題であることはおそらくほとんどないだろうが、
世間において最も知られたエホバの証人と言えばこれだろう。
エホバの証人は輸血拒否する態度を堅く保つことが「命に関わる」と考えているわけだが、
これは文字通り社会的にも「命に関わる」問題なのだ。
生死に関しては自分で決められるべきだ(多くは延命治療の中止や安楽死などを想定しているものだが)とする意見もある一方で、
助かる見込みがあるなら治療を行うべきだとするのが現在の常識である。
「輸血は避けられるものなら避けたほうが良い」のは医学的にも正しいが、
それは輸血だけでなく臓器移植や投薬ひとつ取っても同じことが言える。
このエホバの証人の信条を社会的に許容すべきか否かは非常に難しい問題だが、
少なくともその原因をエホバの証人が主張するように
「信者個人の良心の問題」とするより「教団による明確な教義である」とするほうが
社会的な問題として正しく捉えられるのではないかと思う。
もちろん、ここにも「従わなければ神の裁きで滅ぶ」というマインドコントロールが関係している。
以上、世間に広く訴えるに足ると思われる例をいくつか挙げた。
上記のうち、児童虐待に関しては法的責任追及の余地があると思われるが、
これも宗教団体の責任を問うことはほぼ不可能で、親の責任を問うことにとどまるだろう。
それをしなければ破門、というほど強制力を持つものではなく、
少なくとも形式上は親の自己決定に任されている事柄だからだ。
それも、公的機関が動くとなると子どもが少なくとも重症を負うか、
殺されかける、殺されるといった状況までいかなければ介入が難しい。
いくら傷めつけられていても子どもにとっては代替の効かない親であり、
その親と無理やり引き離すのが果たして子どもにとって幸福か、
という問題もあってなかなか一筋縄ではいかない。
(注)最低限度の文化的な生活が営めない、生存権が保障されないということを理由に「ものみの塔は憲法違反をしている」というような主張が元信者の間でなされることがあるが、憲法という法律は国家を縛る法律であり、私人・民間団体に適用されるものではないため、この主張自体が意味をなさない。どちらかと言えば、宗教活動のせいで最低限度の文化的な生活が営めなくなっているだけにも関わらず、その保障を生活保護などの形で国家に求める信者を問題視すべきだろう。
この記事へのコメントはありません。