エホバの証人問題の過剰な深刻化
ここまで、(1)新参者・(2)被害者・(3)覚醒者・(4)批判者と題して
元エホバの証人コミュニティ全体に概ね共通する総論的な事象を、
さらに(5)「毒親」を持つ元2世・(6)現役親を持つ元2世・(7)元1世と、
対象が限定された各論的な事象について述べてきたが、
ここで再度総論的つまり全体的に当てはまるであろう事象へと話を戻す。
人々はものみの塔が偽りの組織であると気付き、エホバの証人をやめる。
ものみの塔が間違っていることをどう確かめられるのか、
やめてからどう自分の気持ちに整理をつけるか、どう生活を立て直すか…
そういったことを考える上で、元エホバの証人コミュニティは大きな役割を果たす。
一方で、そのような情報に触れることはまさに古傷をえぐるものともなる。
エホバの証人を経験した後、何らかの形でエホバの証人ではなくなった者たちは、
多かれ少なかれエホバの証人のせいで辛い思いを経験してきたはずだ。
その原因は親、会衆の成員、特権者(長老、巡回監督etc.)など人に起因するものであったり、
あるいは排斥や特権削除などの制度、または教義そのものに起因するものであったりと様々だろう。
これらについて自分と類似した様々な経験を読むことで辛い記憶を呼び覚まされ、
あるいは忘れていたことまでも思い出して、自分を傷つける。
親との関係においては、いろいろ考えれば考える程、自分の親が極悪非道の狂人に思えてきてしまう。
それだけでも精神的なストレスにはなるが、
一旦自らの抱える問題を全て洗い出して整理するという意味ではむしろ有効な手段とも言える。
ところが、このプロセスでエホバの証人時代の悪かった面にばかり目を向けることで、
次第に「エホバの証人として過ごした時期全てが全く無意味で無価値なものだった」という思い込みにつながっていく。
実際にはその間にも何かしらの物事は習得しているはずだし、
楽しかったことももちろんあったはずだし(注)、
重要なのはその経験をした上で今、エホバの証人をやめてここにいること、
あるいはやめようという意志を持っていることであるはずだ。
なにより、エホバの証人として過ごした年月は紛れも無く自分の人生の一部であり、
それが今の自分を形作る重要な要素として存在しているはずだし、
これはどうにも今さら変更することができない。
しかし、エホバの証人であったときには特に疑問を抱かずこなしていた活動や、
追い求めていた特権の類が、
欺瞞に満ちたとても空虚なものであるということを解き明かす記事やそのような空気感に支配され、
自分はいったいなんと無駄なことをしてきたのか、と後悔したり、自分を責めたりする。
これがいわゆる「覚醒」と呼ばれるものの一部だろう。
そうなると自分の人生の重要な時期がほとんど無駄な活動に費やされたという認識につながり、
特に元2世であれば、エホバの証人であることが進学や仕事に重大な影響を及ぼしたため、
普通なら享受できたはずのより良い将来が失われた、と感じていることが多い。
それを「エホバの証人として育てられたことで人生を棒に振った」というレベルの極端な主張にまで発展させ、
それを仲間内で共有することで自分や他人の自尊心を著しく損なう、
といった状況が生じているのではないだろうか。
極端から対極の極端へ
これはあらゆる段階の人にとって罠となり得る。
直接的にものみの塔・エホバの証人によって被ったダメージを、
元エホバの証人コミュニティで再び、あるいは深刻化させた形でもう一度与えられるという構図が生まれる。
いわゆる覚醒現役、つまりものみの塔の間違いには気づいているものの、
まだ完全にやめることができずに会衆に参加し続けている者にとっては、
毎週のように「無意味で無価値で、人生を浪費するだけの活動に時間を費やしていること」を
繰り返し突きつけられる。
エホバの証人をやめたばかりの者には、これからの生活に対する不安とともに、
今までの人生にはなんの価値もなかったという虚無感がのしかかる。
またエホバの証人をやめさせられた者には、
排斥や・削除される過程で相当な挫折感を味わっているところへさらなる精神的なダメージが加わることになる。
エホバの証人をやめて年数が経っている者であっても、
一旦はエホバの証人だったことなどしばらく忘れていたにも関わらず、
元エホバの証人コミュニティ内でなされているものみの塔批判に触れることによって
自分がとんでもない反社会的カルト教団に関わっていたというイメージを植え付けられてしまい、
不必要だった精神的ダメージを受けるといったことが起こり得る。
これらもやはり裏を返せば、二度とあの組織には戻るまい、
新たに誰にも入らせまいと思う気持ちをしっかり持つことにつながるので良い面ももちろんある。
しかし上記のような負の影響をまともに喰らってしまうと、
ただの不幸自慢大会だけで済むならまだしも、
本当はそれほど酷かったわけでもないのに我が身の不幸を必要以上に嘆きまくる人とか、
とにかくものみの塔を攻撃すれば自分が満足し、
全ての問題が解決するかのような勘違いを起こす人などが出てくる。
つまり、エホバの証人に関わってしまったということを必要以上に深刻にとらえすぎた結果、
自尊心が大きく損なわれてしまい、
それを回復させるために採ったエホバの証人問題解決のための手段を目的化させてしまうという、
残念な間違いが起きることがある。
これは決して、元エホバの証人の受けたダメージが大きくないということを言っているのではない。
エホバの証人として過ごした時間は無価値なものだと全否定する極端な態度、
またものみの塔によって人生を棒に振ったという行き過ぎた自己否定によって、
実際に向き合うべき問題を正確に把握し、対処することが困難になってしまうことの危険性を認識しなければ、
容易に自分を見失ってしまう、ということだ。
エホバの証人時代に「自分はとても幸福だ」という幻想を抱いていたのと同様、
「自分はとても不幸だ」というのも実は幻想に過ぎないことが多々ある。
しかも皮肉なことに、それら“幸福”と”不幸”の原因は、全く同じものなのだ。
(注)いわゆる「エホバの証人やってて良いこともあったんでしょ理論」を好意的に解釈したもの。
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